
ここ最近、嫌でも目に入ってくるニュースがある。トランプが何かを壊すたびにTLが燃え、高市政権が「時は来た」と改憲を掲げ、台湾海峡を巡って大国同士がテーブルの下で足を蹴り合っている。
これだけ立て続けに浴びていると、頭の中で勝手に像が結び始める。アメリカと日本、この二つの国が抱えている病はまったく違って見えるのに、同じ根っこから生えている。
僕はアメリカのアウトロー映画が好きだ。
日本にもヤクザ映画はある。『仁義なき戦い』があり、『狐狼の血』があり、『アウトレイジ』があり『龍が如く』がある。だがそれらを観たりプレイしたりするとき、僕たちはフィクションとしての一線をはっきり引いている。ヤクザはヤクザの世界にいて、自分たちの日常はその外側にある。龍が如くの桐生一馬に憧れることはあっても、それは自分がそうなるという意味ではない。フィクションはフィクションの完成度で評価される。龍が如くの名越稔洋が本物のヤクザである必要はないし、仁義なき戦いの深作欣二が広島の抗争に参加していた必要もない。作り手の人生と作品の間に、はっきりした断絶がある。
アメリカでは、この一線が存在しない。
正確に言えば、一線を引くことが許されない。アメリカのアウトローカルチャーには「リアルであること」への異常な執着がある。50 Centは9発撃たれて生き延びたことが勲章になった。リック・ロスはドラッグディーラーのペルソナで成功したが、かつて刑務官だった過去が暴露されてキャリアが揺らいだ。取り締まる側だった人間が裏社会を語るな、と。フィクションとして優れているかどうかは問題ではない。お前の人生は本物か、が問われる。
2Pacは「俺が死んだら伝説になる」と歌い、本当に25歳で射殺された。ポップ・スモークは20歳で殺され、死後のアルバムがビルボード1位になった。暴力的な死がキャリアの最終章として機能する。これはフィクションの出来事ではない。本当に人が死んでいる。そしてその死が、作品の真正性を事後的に証明するものとして消費される。
この「リアルの要求」が、フィクションと日常の境界を内側から溶かしている。アウトローを描くなら、自分がアウトローでなければならない。演じるのではなく、生きていなければならない。
映画にもこの力は流れている。お気に入りの3本を挙げたい。
マイケル・マンの『ヒート』(1995年)。ロバート・デ・ニーロ演じる武装強盗ニール・マッコーリーは「30秒で全部捨てられる人生」を信条にしている。家族も、家も、つながりも、一瞬で断ち切れる状態にいること。あの映画が格好いいのは演出だけの話ではない。あの生き方が、実際にあの国で可能だからだ。対するアル・パチーノの刑事は家庭が崩壊し、私生活は犯罪者より荒んでいる。法の側にいる人間とアウトローの間に本質的な差がない。違いは、どちらの側のテーブルに座っているかだけだ。
『デン・オブ・シーブズ』(2018年)はその構図をさらに露骨にした。ジェラルド・バトラー演じる強盗課の刑事は、酒を飲み、容疑者を殴り、法を踏み越えることに躊躇がない。犯罪者を追う側がすでに犯罪者と同じ暴力の言語で動いている。そして強盗チームの一員を演じるのが50 Cent——9発撃たれて生き延びた、あの50 Centだ。本物のストリートの人間がストリートの役を演じている。演技なのか地なのか、その曖昧さ自体が映画の迫力になっている。リアルの要求がキャスティングにまで及んでいる。
そして『ショット・コーラー』(2017年)。この映画が一番背筋に来た。主人公は普通のビジネスマンだ。飲酒運転で事故を起こし、刑務所に入る。ただそれだけの入り口から物語が始まる。刑務所の中で生き残るために白人至上主義ギャングに取り込まれ、段階的に、不可逆的に、アウトローになっていく。
この映画で驚いたのは、刑務所内のコミュニティがそのまま実社会と接続されている描写だった。塀の中で形成されたギャングの序列が、そのまま塀の外の犯罪組織の指揮系統として機能している。刑務所は社会から隔離された空間ではなく、アウトローのネットワークが最も純粋な形で組織化される場所として描かれている。一度その内側に入った人間は、出所した後も抜けられない。塀の中と外に境界がない。
この3本に共通しているのは、犯罪が「あちら側」の出来事として描かれていないことだ。『ヒート』では法と犯罪が鏡像であり、『デン・オブ・シーブズ』では両者が同じ暴力で動き、『ショット・コーラー』では普通の人間がシームレスにアウトローの世界に移行する。
そしてこれは数本の例外的な作品の話ではない。『アメリカン・ギャングスター』(2007年)は実在のドラッグディーラー、フランク・ルーカスの実話だ。フィクションにする必要すらなかった現実を、わざわざフィクションの形に戻している。『キング・オブ・ニューヨーク』(1990年)のクリストファー・ウォーケンは麻薬王でありながら貧困地区の病院に金を注ぎ込む。犯罪者が社会福祉を担う。これもアメリカの現実にモデルがある。
テレビシリーズになると、この境界の消失はさらに深くなる。
『ザ・ソプラノズ』(1999年〜)。トニー・ソプラノはイタリアンマフィアのボスだ。だがドラマの顔つきはホームドラマそのものだった。トニーはセラピーに通い、母親との確執に悩み、娘の進学を心配し、妻との関係がこじれる。その合間に人を殺す指示を出す。何シーズンも一緒に過ごすうちに、視聴者は殺人の指示よりもトニーの家庭問題の方に感情移入し始める。暴力が日常の中に溶けて、それが異常なことだと感じなくなっていく。映画が外側から「地続きだ」と見せるのに対して、ソプラノズは視聴者の内側でその境界を溶かしにくる。
『サンズ・オブ・アナーキー』はアウトローバイカーの暴力沙汰を7シーズンかけてホームドラマのフォーマットで語り切った。
そしてこれは、ここ数十年の現象ではない。
アメリカの映画史を遡ると、世界初の本格的なストーリー映画自体がアウトロー映画だったという事実に突き当たる。1903年の『大列車強盗』。わずか12分の無声映画で、4人の悪党が列車を襲い、乗客を撃ち、金を奪い、最後は追手との銃撃戦で全滅する。ラストカット、強盗のボスがカメラに向かって、正面からリボルバーをぶっ放す。映画というメディアが産声を上げた瞬間に、アメリカはもう観客に銃口を向けていた。
1927年の『暗黒街』はギャング映画というジャンルを確立し、1931年の『民衆の敵』では貧民街の少年が密売ギャングに成り上がる話がトーキーで語られた。カタギが無法者になり、一時は大金を手にし、最後は国家の暴力に潰される。この構造は120年間、一度も変わっていない。『大列車強盗』のプロットを現代に移し替えたら、そのまま『ヒート』になる。
アメリカという国は、映画の誕生と同時にアウトローを崇拝し始め、120年間それをやめなかった。これはジャンルの流行ではない。国の精神構造そのものだ。
ゲームになると、もう一段階深くなる。映画やドラマでは観客はまだ外から見ている。だが『Grand Theft Auto』では、プレイヤー自身が暴力の主体になる。車を盗み、人を殴り、警察から逃げ回る。本質は犯罪シミュレーションではない。秩序そのものを玩具にする快楽だ。すべてのルールが「壊してもいいもの」として存在している。GTAのVだけで全世界2億本近く売れている。
そして現実のアメリカでは、足首にGPS追跡モニターをつけた保護観察中の若者が、自宅でそのGTAをプレイしている。スクリーンの中と外で同じ暴力が二重写しになっている。
龍が如くの桐生一馬は、プレイヤーの日常とは切り離された「あちら側」の住人だ。だがGTAの主人公たちは、プレイヤーの隣人かもしれない。
この国では破壊と自己破壊が美学として成立している。そしてそれは底辺のサブカルチャーの話ではない。ウォール街がリーマン・ショックを起こしたのも同じ構造だ。限界まで膨らませて、破裂させて、焼け野原から金を拾う。壊して作り直すことへの、宗教的とすら言える信仰。
フロイトはこの種の力をタナトス、死の欲動と呼んだ。すべてを無に帰そうとする力。アメリカはタナトスと共存するどころか、それをエンターテインメントにし、経済の駆動力にし、政治にまで持ち込んだ。
トランプ現象はその延長線上にある。あれは政策への支持ではない。既存のシステムごと爆破したいという衝動が、たまたま人間の形をとった。2016年に一度、2024年にもう一度。二度目はもう事故ではない。
日本はその対極にいるように見える。
園子温の『HAZARD』(2005年)という映画がある。主人公のシン(オダギリジョー)は東京に暮らす大学生で、何不自由ない生活を送っている。だが彼は日本に窒息している。映画の中で、ナレーションは子供の声でこう独白する。
「東京。今頃、東京はどうだろう。シンは思った。幸せで、安全な日本。退屈で、しみったれた日本。足のかかとがむず痒い日本。日本には馬鹿な要素が全て揃っている。眠い国、日本。でも、眠れない国、日本」
眠い国。でも、眠れない国。この矛盾が、戦後日本の状態を正確に言い当てている。
ギリシャ神話にヒュプノスという神がいる。眠りの神。タナトス(死の神)の双子の兄弟で、死そのものではないが、まどろみの中で現実との接触を断っている状態を司る。シンが見ている日本はまさにこのヒュプノスの領域だ。安全で、清潔で、すべてが管理されている。危険がない。偶発性がない。だがその眠りの中に安らぎはない。足のかかとがむず痒い。何かがおかしいと感じているのに、何がおかしいのかわからない。眠いのに眠れない。
シンはその居心地の悪さに耐えられず、ニューヨークへ渡る。そこで出会ったチンピラたちと行動を共にし、暴力と混沌の中で初めて「生きている」と感じる。タナトスの国に飛び込むことでしかヒュプノスから逃れられなかった。
なぜ日本はこうなったのか。
戦前の日本はむしろタナトスの塊だった。大東亜共栄圏、玉砕、特攻。国家ごと死の欲動に突っ込んでいった。そしてその暴走するタナトスは、アメリカというさらに巨大なタナトスに叩き潰された。1945年、焼け野原。
普通なら、ここで敗戦を直視する過程が来る。自分たちが何をしたのか、なぜ負けたのか、この先どう生きるのか。だがそれは起きなかった。敗戦は「終戦」と呼び変えられた。占領は復興の始まりとして読み替えられた。憲法はアメリカに書いてもらった。安全保障はアメリカに預けた。そして日本は、経済的繁栄という長い夢を見始めた。
屈辱を直視する代わりに、目を閉じた。眠ることを選んだ。
その眠りは快適だった。高度経済成長、バブル、世界第2位の経済大国。夢の中にいる限り、敗戦の痛みに触れなくて済む。アメリカに従属しているという事実も、憲法を自分たちで書いていないという事実も、眠りの中では問題にならない。起きなければ、向き合わなくていい。
そしてその眠りは、80年経った今も続いている。
だが『HAZARD』の結末が示しているのは、タナトスの国にも答えはなかったということだ。シンはニューヨークから日本に帰ってくる。税関で、本人にしか見えない「大金」を手に入れて。渋谷のスクランブル交差点に戻ったシンは、絡んできたヤンキーからナイフを奪い取って言う。面白いんだろ、そこ?連れて行けよ、と。
ヒュプノスの国に帰還しても、シンは眠りに戻れない。タナトスを経験した人間はもう元の夢には帰れない。だからといってタナトスの側に留まることもできなかった。シンは本質的に、ここではないどこかを探し続けている。
シンが抱えた問題は、そのまま日本とアメリカの関係の問題でもある。
タナトスのアメリカと、ヒュプノスの日本。片方は壊し続け、片方は眠り続ける。一見、対極だ。だが対極に見えるものが同じ根から生えていることがある。
日本のヒュプノスは、アメリカのタナトスが作った。
戦前の日本は自前のタナトスを持っていた。暴走する軍国主義、膨張する帝国、玉砕の美学。だがそのタナトスは、アメリカというさらに巨大なタナトスに完膚なきまでに叩き潰された。東京大空襲、広島、長崎。より強い破壊衝動が、弱い方の破壊衝動を焼き尽くした。
焼け野原に残された人間に何が起きるか。打ちのめされた側は、その痛みをまともに受け止めると壊れてしまう。だから感覚を閉じる。目を閉じる。眠る。これは個人の心理で言えば解離に近い。耐えられない現実から意識を切り離すことで、かろうじて自分を保つ防衛反応だ。
日本の戦後はこの解離の上に建てられている。敗戦を「終戦」と呼び変えたのは、言葉のレベルでの解離だ。アメリカに占領されながらアメリカを同盟国と呼ぶのも解離だ。自分たちで書いていない憲法を「平和憲法」として誇るのも解離だ。どれも、現実をそのまま受け取ると精神が持たないから、別の物語に変換して生き延びている。
つまりヒュプノスは、タナトスに殴られた側が自分を守るために選んだ麻酔だった。対極ではない。因果関係だ。暴力を振るう親と、解離する子ども。同じ家の中の出来事だ。
そしてこの関係は80年経った今も動いている。トランプが同盟の前提を破壊し、高市が「普通の国になる」と言い、台湾海峡に緊張が走る。アメリカのタナトスが日本のヒュプノスの布団を引き剥がしにくる。いつまで寝てるんだ、起きて一緒に戦え、と。
だが「普通の国」とは何か。高市の言う「普通」は、アメリカと同じ側に立つ国のことだ。それはヒュプノスからの覚醒ではない。タナトスへの合流だ。眠りから覚めたと思ったら、隣で暴れている人間の仲間に入るだけだ。
かといって、このまま眠り続けていればいいという話でもない。80年間の眠りは何も解決していない。敗戦と向き合わなかったツケは積み上がり続けている。眠りの中に安らぎがないことは、園子温がとっくに描いている。渋谷のスクランブル交差点でナイフを握ったシンは、ヒュプノスの国に帰ってきてもヒュプノスには戻れなかった。だがタナトスの国にも居場所はなかった。
タナトスとヒュプノスは対立する選択肢ではない。同じ力が引き起こした表と裏だ。壊すか、眠るか。どちらも、まともに生きるということからの逃避でしかない。
僕はどちらの側にも立ちたくない。壊したくもないし、眠っていたくもない。ただ、権力がさらに権力を手にすることだけは嫌だと思っている。それがアメリカの顔をしていようと日本の顔をしていようと関係ない。タナトスもヒュプノスも、結局は権力が個人に対してやることの二つの形でしかない。壊すか、眠らせるか。
シンが探していた「ここではないどこか」は、たぶんタナトスの向こう側にもヒュプノスの内側にもない。僕にもそれがどこなのかはわからない。ただ、どちらの旗も振る気にはなれなかった。
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